河井酔茗傑作詩篇4

はてなき森

 

 

若き子を導き入れて

鳩は梢を放れたり。

誘はれし途は忘れて

踏めば小草の柔かき。

 

檜葉杉葉、重なり覆ふ

森の光はにぶくして

幻覺のありとや見ゆる

瞳の色のかがやきに。

 

ねむげなる合歡より出でて

葵にうつる紅の

花瓣に觸るると見えて

胡蝶の舞のたわいなき。

 

想ふこと袖を飜せば

高き馨の花となり

花の香の醉より覺めて

凉しき風の葉に起る。

 

一葉、一葉、撒くや木の葉の

手に盡きむ日は限るとも

何處より背を向けて

引返すべき途あらむ。

 

雛鳩に導かれたる

美しき子の顔あげて

幻覺を踏み迷ひ行く

森の深さは涯しらず。

河井酔茗傑作詩篇 3

薄暮

 

 

薄くらき畳の上に

落としたる簪白薔薇

黄昏を拾ひもささで

吾思ひ、衿に埋む

 

うづくまるならひとなりて

古き柱、人になづきぬ。

知らず、吾亂るる袖を

ほの白き手に押へたり。

 

幻覺を胸に映して

吾想ふ世こそ描け、

待たばとて徒らなるを

少女の身、朽ちむは惜しき。

 

行く水に影逐ふよりも

吾岸の小草に醉はむ

吾肩に人、手を下し

撻たば靜かに避けむ。

 

堪へかねし白日の愁も

つり忍草靜かに暮れて

ゆふべゆふべ眠らぬ夢の

うすやみに燭火なつけそ。

『河井醉茗遺稿詩集成』のこと

河井酔茗の詩集は古書としてもなかなか手に入れがたいものが多い。

ただ、詩人ご自身が自ら選んで詩集として単独に刊行されたものは、1946年(昭和21年)の『花鎮抄』(金尾文淵堂刊)を最後とする。

まだ、詩人がご存命であったおりに、小牧健夫解説で角川文庫版『河井酔茗詩集』が出ている。(筆者は未見)

詩人の亡くなられた翌年、1966年(昭和41年)にご子息の島本融氏の編集により遺稿集と称すべき『千里横行』が塔影社から非売品として刊行された。

と、ここまでが、前置き。

 

 筆者の願いは『花鎮抄』あるいは角川文庫版詩集以後、『千里横行』までの間に収録されなかった詩篇の全篇をまとめた『河井酔茗遺稿詩集成』のような本の刊行である。

これを、2021年の最大の夢としたい。

 

河井酔茗傑作詩篇 2

 

 

一言の葉を開くにも心より

生生とひらき出でたるこころよさ、

一言のたましひのわづらひに

口ごもりて力なき葉は地に落つる。

 

活動に覺めたる時は貝の葉を

蒼海の深きに探りはぐくみて

濃き油其葉に盛れば生命ある

くれないゐの潮火となり燃ゆるらむ。

 

若き日に戀する人が息の緒の

打ふるふ聲と聲とを口づけて

すきとほる胸と胸との愛しみ

戀ならぬ不斷の我の影に添ふ。

 

わが言葉空ゆく雲のひと時も

人の世に同じ姿はとどめねど

むかへば自然其時の表現を

表はさむ外に二つの姿なき。

 

けざやかに花冠する白日を

うらうへに素肌の人は誤解られ

忌まれ探られ捨言を落葉の

葉蔭に透かし見つつも怪訝めり。

 

 

 

 

河井酔茗傑作詩篇 1

霧降る宵

 

ひやひやと霧降る宵の

街の樹は遠のくすがた

家と家、遙かに對ふ

 

あざやかに靑き葉選顫ふ

街の灯の疲れしかげに

消ゆる人、現はるる人。

 

晝見たる文字の象も

色彩も、ありとや想ふ

すかしみる闇の深みに。

 

轟きは彼方に消えて

大都會もの輕やかに

薄霧の底に沉みぬ

 

我いのち確に置けど

浮城は今や千尋

霧の海かくれてゆきぬ。

新體詩人に会いに行く5

木村草弥さんに感謝。

そのブログで島本融氏が群馬県立女子大の名誉教授であられたことを知った。わたしの好きな河井酔茗の二代にわたる詩人だと思っていたら、俳人でもあるそうな。

今、編著「千里横行」や詩集『時禱書の秋』を手に窓辺の雪景色を見ている。外は、マイナス8度くらいかな。

新體詩人に会いに行く4

 河井夫妻(河井酔茗と島本久恵)のご次男の島本徹氏は詩人でわたしが持っている詩集は、今ない「塔影詩社」から1978年に100部限定で出版された『時禱書の秋』。(この詩集については、別の機会に書く。)

 時間は進む。平成13年に堺市の図書館で河井夫妻の展示(詳細は知らない)があって、この時記念の講演会でご子息が講演を行っている。仕事始めになったら、問い合わせして、この講演録を手にして読んで見たいと思っている。河井酔茗の遺稿を『千里横行』という詩集にして出したのもこの島本融氏。

 タイトルとなった詩篇の第一連をあげる。

     秋晴れて草木黄落(きばみお)つる日に

     わが足を痛めたり

     畳に杖ついて

     野越え、山越え

     行かんとするに足すくみ

     さはれば落る山茶花

     もろきが如し

詩人は幾多の時間を経て今、杖をたよる老骨の身となり「さわれば落ちるもろき山茶花の花一輪」と弱気に見せてはいるが、この微小の世界に神羅万象あり、畳の上、狭き室内にあって、時間のすべてを逆にさえ辿りながら、今なお青年の体躯と精神で野を越え、山も越えつつあるのだ。